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良質なわかめを直接届けたい。石巻十三浜の挑戦(前編)



2016年4月。私たちは、早稲田自然食品センターで扱う「顔の見える海藻 (株)リアスの石巻十三浜 絆わかめ」の故郷である、石巻十三浜を訪れました。
東日本大震災後、宮城県石巻市を訪れるのはこれが初めてとなります。

石巻十三浜は、北上川河口の追波(おっぱ)湾に位置し、山からの抱負な栄養分が北上川を通じて外海と交わる、恵まれた漁場です。
三陸のリアス式海岸の地形を活かした海産物の養殖も昔から盛んに行われており、わかめもその中の一つ。
肉厚でしっかりした歯ごたえと、それでいて柔らかいのが特徴です。

「絆わかめ」は、海藻専門製造卸・(株)リアスが、漁協を通さずに直接わかめを買い付け、製品化したものです。

漁協を通さない、というところが大きなポイントで、これにより「原料はどこから来たのか」「誰が生産しているのか」を、消費者にはっきりと伝えることができます。品質の良い、信頼性の高いものを消費者は購入することができるわけです。原料のわかめを捕る漁師にとっても、毎年一定の価格で原料を卸すことができるため、生活の安定にもつながる、まさに「三方良し」の商品。

今回の訪問では、「絆わかめ」の生みの親の一人、漁業生産法人「浜人(はまんと)」の阿部勝太さんにお話を聞くことができました。

突然の震災。「寝て起きたら夢だったんじゃないか」




阿部さんは家族経営で漁師を営んでおり、養殖物は漁協に、天然の秋鮭は市場に卸していました。
震災当日、その日はちょうど天然ひじきと、うにの開漁日。

「午前中に津波が来たら逃げられただろうか、と、今でも思います」。

2011年3月11日、北上川河口から石巻市内へ向かって、津波が押し寄せました。
その日、阿部さんは、家も船も、加工場から養殖棚まで、全てを津波で失いました。

ライフラインは全て止まり、仮設住宅が立てられる見込みもありません。
地域のコミュニティセンターに避難し、3ヶ月を過ごしたそうです。

3ヶ月の避難生活は、まさにサバイバル。
沢の水を沸騰させてから冷やし、飲水を確保しました。
わかめの養殖に使う大きな釜で沢の水を何度も沸かし、1回ぶんの風呂水に。
「生活は180どころか、180度以上変わった。」と阿部さんは話します。

「夢だったんじゃないか。寝て起きたら自宅の天井が見えたりしないか、そんなことを考えました。北と南で橋が5個落ち、アスファルトがめくれて車が通れない。たくさんの人が路上生活を余儀なくされました」。

「ボランティアにたくさんの方が来てくださいましたが、窓口のボランティアセンターに行っても、情報が行き渡っていないから、どこに行っていいかわからなかったそうです。行政支援はありがたいが、限界がありました。民間支援のおかげで助かったんです。ガソリンもまったくない、燃料、水、食べ物もない。それを助けてくれたのが民間支援の人たちです。今でも付き合いがあります」。

震災当時に知り合った民間支援の方々とは、その後も交流が続いており
今では消費者として、阿部さんの活動を応援してくださっているそうです。

人付き合いのありがたさを感じた5年間。
熊本地震についても、すぐに物資支援の準備を始めたそうです。

「今までの自然災害の歴史って、実はすごく多くて。茨城の方では洪水や竜巻、土砂崩れなんかもありましたよね。そして熊本の震災。人ごとではないなと。自分たちがやっていただいた身ですから、熊本へはミネラルウォーターに絞って物資を届けています」。(※取材当時は熊本地震発生から1週間のタイミング。水が何よりも欲しかったという自分たちの経験をもとにしたそうです)

なにもかもが不安定な漁師という仕事



今回の取材のハイライトは「わかめ漁船に乗ろう!」
そう意気込んで来たのですが、当日の天候は雨。
暴風警報まで発令されたため、残念ながら、わかめを収穫する漁船には乗れませんでした。


「震災の時は、ちょうどわかめの種付けをして、いざ収穫、という時でした。ところが流されて、それで終わり。津波だけじゃなく、今回のように強い低気圧が来ることもある。結局、人間は自然に逆らえないんです」

漁師になる前は、仙台、東京、愛知などで5年間、別の仕事をしていたという阿部さん。

「漁師というのは、そんなにいい仕事じゃない。というのが最初の印象です。まず、休みがない。会社員は週末絶対に休みで固定休でしょう。漁師は休みの予測がつかず、労働時間も長い」。

寝る時間と起きる時間が逆転した生活。慣れるまでが本当に大変だったそうです。

「漁師は稼げると思ってる方も多いのですが、例えば1,000万稼いでも、半分は船や養殖棚のメンテナンスで消えます。家族経営で労働力が4人だったとすると、年収は1人250万以下です。しかも、担保されていない」。

通常、漁師さんが採ってきた海産物は漁協を通じて卸業者へと流通します。
野菜もそうですが、採れた量が多い時や、海外からの輸入量が多い時は、商品の価格は下がります。
つまり漁師さん達は、自分の持つ能力や成果ではなく、市場に完全依存した形での生計を余儀なくされます。
市場価格がガクンと下がったとしても、生活をしていかなければなりません。
そのためにできることは結局、薄利多売。
たくさん採ってきて、たくさん売るしか収入の向上が見込めませんでした。
このやり方はともすれば乱獲へとつながり、日本の海産物にとって命取りにもなります。

この「収入の不安定さ」が震災後、阿部さんたちに大きな壁となり立ちはだかることになるのです。

震災後、いざ復興の段になり、阿部さんはまず資金の問題に直面します。
漁協の保険にはもちろん入っていたものの、査定結果は元の資産の半分以下

「漁師の仕事は、収穫の予測がつかない、イコール、価格の予想がつかない。収入が安定せず、銀行の与信が通らない。震災後は、漁場の再建と元あった家のローン、さらに新たに家を建てなければならず、今までどおり漁をしても三重苦にしかならないと思いました」。

借金を一生抱えて終わるのか、それだけではなく、子供の世代まで借金を重ねるのか。
阿部さんはこれまでの流通の形に疑問を抱くようになりました。

「これではいかん!!ということで、どうにかして価格の安定や所得の向上を考え、行き着いたのが今の形です。ただ漁協にポンと渡して(原料が)どこへ行くかわからない、業者都合。しかも、市場の都合で価格が上下する。それじゃだめだと。良い物を作り続けるから、それに見合った、安定した収入が欲しい。それには、自ら販売するしかありませんでした」。

震災をきっかけに、漁師という仕事の在り方を自らに問うた阿部さん。
この後、どのようにして「絆わかめ」を生み出すに至ったのでしょうか?


(後編へ続く)